朝日新聞掲載

平成18年3月11日

-臨床力と基礎-解決能力、患者から学ぶ

九州大学大学院 消化器・総合外科(第二外科)
前原 喜彦

 私の専門領域を一言で言うと、「がんの診断と治療」になる。今年で大学を卒業して28年がたつが、これまで様々な性質のがん、そしてがんにかかった多くの患者に接してきた。

 さて、がんにはどれぐらいの種類があるのか計算してみよう。私たちの体の細胞一つひとつには約2万数千個の遺伝子が存在している。その中でがんの発生に関与する遺伝子が100個あり、その中の10個に変異が起こって個々のがんができたと仮定すると、100個から10個を選び出す多様性は天文学的数字となる。地球上の人口よりもはるかに大きい数字である。

 これは日々の臨床の中で、同じがんには二度と出会わないことを意味している。個々の患者に何が正しい診断で何が最適な治療であるか、どこにも正解は書いていない。医師は全力を尽くして答えを導かねばならない。

 正解に限りなく近付く解決能力は、どのようにして習得できるのだろうか。方策を考えると、患者をよく診ることが最も大切であることは言うまでもない。朝に夕に患者の枕元に行き、患者の表情、皮膚の色やつや、活気はどうか、患者に触れて、診て、訴えに耳を傾けることである。米国の病院医学の祖オスラー博士は「患者を診よ。患者はすべてを語っている」と言っている。

 それとともに、医師も基礎研究に従事する期間が必要ではないかと思う。基礎研究を通して、疾病の本体に迫る努力をすること。しかし、研究は失敗の連続である。その失敗を通し、どうすれば克服できるか悩み、考え、文献を読み、人の話に耳を傾ける。この過程を通して、思考力、判断力、洞察力、創造力、そして病態の本質を見抜き、解決してゆく能力が備わってくる。

 医療の現場では失敗は許されない。しかし、ある一定の確率でミスや合併症は起こり得る。ミスや合併症を認識し、克服するのも能力である。

 新しい臨床研修医制度が始まり、早く専門医になろう、なった方が良いという風潮があるが、基礎研究に従事する期間もほしい。米国でも実地研修を積む研修医(レジデント)から一流病院の専門医師(フェロー)となるには、しっかりとした基礎研究に従事し、論文業績を持っていることが要求されている。

 病める人に共感できる心や、温かく包み込むような人間性の修養も大切であることは言うまでもないし、医師という職業は常に発展途上である。医師人生をすごろくに見立てると、早くあがる必要もなく、あがりは思ったよりもはるか遠くにある。我々には、年を重ねながら医師としての向上心を継続していくことが求められている。


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